太地NAVI in Jimdo

風光明媚な太地町の非公式観光情報サイトです。
古来より捕鯨で栄え、現在では捕鯨文化を受け継ぎつつ鯨と生きる町、太地町の観光を応援しています。
他にも太地町を理解するための様々な情報を掲載していく予定です。

太地町の森浦湾方面から本浦方向を望む

太地町の恩人として語り継がれる「小壺巡査の功罪」

太地町は大背美流れを経験した後に、捕鯨業を中心に多くの人材を海外に送り出しました。
その渡航先の一つがアメリカ合衆国で(以下アメリカ)したが、情勢の変化によって、アメリカでは排日の機運が高まり、ついには日本人の渡航ができなくなってしまいました。
そんな折、太地町の小壺巡査と呼ばれる人物が、自らを犠牲にして郷土の人材をアメリカに送り出すために行った一つの功罪について紹介したいと思います。

オスカー・シンドラー杉原千畝と比べると、若干見劣りがするかもしれませんが、当時の太地のことを考えたが故に小壺巡査が起こした事件について、知っていただければと思います。

小壺事件(太地町史より引用)

わが郷土で大正初期に、アメリカ移民の疑獄事件が起こり、大騒ぎしたことがある。これが有名な小壺事件である。この事件は、わが郷土の人たちのために、小壺巡査が身を犠牲にして起きた事件で、法律上からいえば公文書偽造という国法を破ったものであるが、この事件ほど郷土の人に喜ばれ、感謝され、また郷土のためになった事件は、他に見られないだろう。強いていえば江戸時代に、佐倉宗五郎が自己を犠牲にして多くの農民を救った、あの事件に匹敵することができるであろう。だから、あえて、この事件の関係者の氏名をあげ、アメリカ移民の恩人として、太地町誌のページを飾り、ながくその名を留めたいと思う、その意味で御遺族の御諒解をお願いする次第である。

事件の内容は、在留郷土人が自分の子を呼び寄せる事ができるという合法性を利用したものである。問題は、この合法性を利用して、在米郷土人の親戚や知人の子を、その人の戸籍に養子として入籍させ、戸籍上親子の関係を結んでアメリカに呼び寄せるという方法があった。また、一旦帰国して死亡した人、再渡航しなかった人の名を借用して、本人になりすまして再渡航の手続きをとった者もあったようであったが、しかし、この事件は、主として養子縁組の戸籍偽造にあったようである。このような遣り方について、我が国では、アメリカにさえ問題がなければ、国民の一人でも彼地に行き、外貨を獲得することが、当時の国情として急務されていたので、政府としては、黙認していたようである。たまたま村民の一人が役場の係員と、この手続についていざこざを起こし、それを根にもって投書したのがきっかけとなり、政府でも当初があった限り放って置く訳にもいかず、ついに事件の摘発に乗り出したということである。

時代背景

この事件について知っていただくには、当時の時代背景について、解説する必要があると思います。
1878年に大背美流れという国内最大級の海難事故が起きたため、太地鯨方は岐路に立たされます。
かねてから財政が困窮していた上に、遺族への保障などの善後処理のために、更に資金調達をする必要が生じた太地覚右衛門(太地浦の宰領)は、北海道の漁場の開発などを野心的に行おうと、大阪に出て熊野の物産を扱い、その資金をえよう奮闘していました。

しかし、休漁していた太地では、一族に無断で開業しようとしたり、覚右衛門がいないことを理由に「この一大事に大阪で遊んでいるに違いない」と悪評をたてられるなどで、人々の心は覚右衛門から離れていってしまいました。
これにより、太地鯨方は300年の幕を閉じることになりましたが、しかし太地浦では、その後も捕鯨に対する情熱を忘れることができなかった人々が、新たな捕鯨を試み始めていました。
近代捕鯨の始まりです。

1904年に前田兼蔵が前田式捕鯨銃が開発され、翌年にはノルウェー式捕鯨砲が採用されるようになると、捕鯨の様式は様変わりしましたが、鯨類資源の減少した当時の沿岸ではなかなかうまく行かず、遠洋に漁獲を求めたり、海外に渡航して捕鯨やその他の生業をはじめる人も増えていきました。
その一つが、先日ドキュメンタリー映画にもなったカリフォルニア州ターミナル島で、アメリカは絶好の移民先だったのかもしれません(太地出身の画家、石垣榮太郎もアメリカ移民の一人でした)。
ところが、アメリカの日本への風当たりは徐々に強くなり、日本人移民の受け入れを徐々に拒み始めます。

以下、太地町史より表の抜粋です。

アメリカの排日移民法の経緯
年号 西暦 内容
明治 三十八年 1905
  • アメリカに排日協会が結成された。
  三十九年   
  • 日本学童に対する隔離制が実施された。
  四十年  
  • 日本は、自発的に移民の制限を約する日米紳士協定を締結した。
  • シヤトルを中心として日本人排斥運動が起こり、翌年ますます激化した。
  • ハワイより日本人のアメリカ本土への再移民が禁止された。
大正 二年 1913
  • カリフォルニア州に排日移民法が制定された。
  九年 1920
  • 日本人移民の写真結婚による妻の入国が禁止された。
  十三年 1924
  • アメリカに日本人の帰化、入国の禁止などを含む排日移民法が制定された。

上記のように、アメリカでは排日政策によって、徐々に移民を受け入れなくなり、最終的には移民に開かれていた扉はとざされました。
再び、太地町史より当時の状況の引用です。

以上のようなアメリカの措置は、日本人移民の制限を強化するもので、特に大正二年のカリフォルニア州の排日移民法が成立するに及んで、これまで発展してきたアメリカ移民は、まったく、その門をとざされるにいたったのである。 そのために比較的に自由な渡航方法のあったアメリカ移民も、大きな打撃をうけ、我が郷土のアメリカ行きにとっても容易ならぬ事態となったことは申すまでもない。しかし、ここに唯一つ残された渡航方法として妻子の呼び寄せがあった。この方法を利用して、のちに小壺事件が起こるのであるが、詳細は別項にゆずることにする。なお、この当時においても密入国(密航)するものが絶えなかったが、だんだん移民官の探索が厳しくなり、せっかく入国しても強制送還されるものが多くなった。更に同十三年アメリカ排日移民法が制定され、この法律によると、日本に在住するアメリカ生まれで市民権を持つ二世のみが、渡航を許されるのみとなり、ここに我が国のアメリカ移民は、まったく閉鎖され、終止符をうつにいたったのである。

(参考)

アメリカは、日本人に対して厳しい排日政策をとったにもかかわらず、中国人に関しては、何等の制限もなかった。その理由は、アメリカの中国政策上、中国を刺激してはならないという方針にもとづくものであったのである。

……以上のように、日本に対してのみ対応を厳しくする当時のアメリカへ、それでも多くの希望を持って渡っていった紀南の人々がいました。
そんな中で、その地元の人々の夢を下支えするために、小壺巡査は罪を犯し、移民たちを送り出していったのでしょう。