太地NAVI in Jimdo

風光明媚な太地町の非公式観光情報サイトです。
古来より捕鯨で栄え、現在では捕鯨文化を受け継ぎつつ鯨と生きる町、太地町の観光を応援しています。
他にも太地町を理解するための様々な情報を掲載していく予定です。

太地町の森浦湾方面から本浦方向を望む

寺社仏閣について(新屋敷地区編)

ここでは、新屋敷地区にある神社や寺院についてまとめています。

太地町はかなり昔からある町ですから、その規模に反して神社の数が多く、また太地町の歴史や古式捕鯨を語る上で重要な寺院もありますので、それらを巡る旅というのも興味深いかもしれません。

なお、中にはわかりにくい場所もございますので、その場合は町の人に訪ねてみてください。
太地の人は皆親切ですから、丁寧に質問すれば、きっと教えてくれると思います。

 

清泰山東明寺

東明寺は太地の奥の方にあるお寺で、鯨供養塔があることで知られています。

このお寺の縁起ははっきりしませんが、町史によると別のところにあった庵寺の寂翁和尚という人が、貞享四年(1687年)の三月に城山の下にあった太地氏の屋敷跡が空いていたために、そこに寺を建てて清泰山東明寺と命名したと記されています。

現在も残されている石垣は、その名残だと思われます。

その後、寂翁和尚に関する記録はなく消息は不詳でしたが、その後を継いだ当山一世梅龍和尚は名僧として知られた人で、由良の興国寺で修行をされていたこともあり始めは興国寺の末寺になっていました。

ところが明治二十四年に何故か宗派系統は同じの妙心寺末寺に変わっています。

 

明治七年(1874年)に火災で全焼したものの、すぐに上太田村南大居の大蔵院の堂宇を譲り受け仮の本堂として再建、そして明治四十一年(1908年)に現在の本堂が再建されました。

 

鯨の供養碑は、口伝によると捕鯨に従事していた太地住民の間に奇形児が多く生まれるため、徳本上人に相談したところ、鯨の怨霊に祟られているので鯨を供養すれば良いという話になり、その際に建立されたのがこの供養塔だといわれています。

その後、鯨方では毎年鯨の供養を行うようになったと言われており、ひょっとすると、いま梶取崎で年に一度行われているくじら供養祭は、これが由来かもしれません。

また、頭(カバチ)衆の墓があります。

頭衆とは、鯨方の捕った鯨の頭を分前としてもらうことができた家柄の家々をいい、口伝によると和田家が捕鯨を始める以前から捕鯨を始めていた家々で、彼らが持っていた捕鯨権の代償として、多量の油が採れる効果な部位の頭を無条件で分与したそうです。

波切神社

太地の奥の方にひっそりとある神社で、祭神は橘姫。他にも稲荷神社が祀られています。

もともとは海上安穏の神で、場所的に見て古くからある神社だと思われます。

この他にもこの神社には弁財天様も祀られていたそうですが、今はその跡はみられません……。